木遣音頭について

静岡県左官組合
静岡市部長 故 白島金次郎氏 調べ

木遣という言葉を辞書から引いて見ますと「きやり」とは多人数で、材木等を、音頭を取り掛声をして送やる事、又きやりの時労を助け力を添えるために唄う、一種の俗説で木音頭ともいう。又木くずしは木歌より転じた俚曲(りきょく・浮かれ節)と載っております。

木遣の種類には、木石運搬の木遣、地突の木遣、棟上の木遣、消防の木遣、お踟(おねり)の木遣などがあり、付詞の似ているもの、変わっているもの、歌詞や節が変わっているものなど、いろいろあります。

文献にのっているものでは、桃山時代に豊臣秀吉公の命により三奉行の一人・加藤清正が天守閣築城の際、その石材木材等の運搬に自ら、きらびやかな陣羽織を着、烏帽子を冠り扇子をかざして、車の先頭に乗り運搬に引綱している人々に、カ添として工事の進歩を図ったという亊があります、

静岡の木遣は、古老の伝承に依りますと駿府城築城の時に遡るといわれます。 今にして思えば、竜爪山の麓、長尾平山あたりより、お城の石垣用石材の運搬に近隣からの木材運搬に唄う木遣はまことに威勢がよかったものと想像されます。

 その築城の際の基礎工事・胴突などでは、二階櫓で、音頭取りが美声を張り揚げ、扇子を振って調子を取り、それに和して木造音頭を謡って、引綱を引揚げたということで、それは神社仏閣や町の豪家のうちに残っておりました。

太正のはじめころまでは、地搗(じつき・家を建てる前に、土台の地面をならしてつき固めること)や建方の重量物の引揚げ等には特に美しい声の人を頼んで、木遣の音頭取を頼み、酒や卵を饗として待遇したものです。

  次にお踟(おねり)の木遣について述べましょう。

慶長年間、徳川家康公が服織村の建穂寺へ花見に赴いた際、一千年来伝承したという、古雅な稚児の舞楽見てお気に召し、二人を浅間神社の廿日会祭に奉せしめたのを機に、この稚児衆を安倍川原に出迎のための屋台を出す例となり、この屋台の引綱に木遣を唄うのが、「木遣くずし」といわれ、「七の助木造」は、このお踟(おねり)専問に唄われました。

静岡の左官と木遣の関係

静岡の左官には、昔から鳶職が含まれいて、他の地方の左官と違って、人夫関係の仕事は、なんでも左官か引受けていた背景があり、御城用の人夫から、貴重物の運搬、地突基礎工事、建方に至るまでやっていたため、勢い木造の音頭取りをも左官がやっていたのです。声の良い人は、お踟(おねり)の当番の町内から、前年中に予約を受けたものです。こんなわけで、木遣の得意な人は、木遣をやるために人夫でも、左官組合へ入会しておりました。

江戸風木遣り

静岡の左官組合が、明治初年、町役所より静岡消防を拝命しました。その際、この当時、徳川慶喜公の付随として静岡へ来た、東京の新門辰五郎輩下の鳶の一組を合併して、六組から成る静岡左官消防組が組識されたのです。このため、江戸風の消防木遣が、静岡の左官に唄われる様になりました。

このような経緯で、静岡の左官と木遣とは密接な関係があります。

木遣の付について

建方の場合、梁等重量物と引揚げる時、「鯱方」を唄い、次で用意の時には、「地離れ」、次に「引綱」を唄います。
上棟式の時は、「さんよ」で始まり「引綱」「よい子のさんせ」「掛塚」「清水」の順に唄います。
内容の詞は、目出度いもの。
例えば日の出に鶴亀松ずくし、松竹梅などを読み込んであります。特に地突きなどの場合、ありきたりの歌詞になって仕舞いがちですが、潰れた人は東海道五十三次とか、国づくしなど、自由自在に思いつきの文句で唄いこなします。

木遣の上手だった人をあげてみます

  明治の末から大正に掛けて有束の長さん、川辺の大菊さん、小菊さん、錠さん、元市会議員・山梨準平氏の父・富士見町の左官の林蔵さん、沓谷三杯屋、安東の親富さん、安西の助さん、勇さん、一番町の留さん、八幡の豊さん、終戦後亡くなられた車町の左官の由蔵さん、現在では新通の左官・嘉吉さんでしょう。

木遣に付いて面白い話

  明治から大正の始め頃まで、町家で土蔵の地突等で唄う木遣の調子に引かれて、木遣好きの人たちは一日中、地突の引網の手伝いをして行く人々があったという事です。地突に木達は付き物でしたが近年は地突もモンケン(杭を打設するのに杭打ち工事で使用する重錘(じゅうすい)のこと)に、建方も機械力を応用される様になりました。しかし、上棟式とお胸には木遣が 必ず付きものになっております。

こうした伝統と歴史を持つ木遣音頭は無形文化の 一つとして保存し後世に伝えて行く事が、私達左官が社会に対し、後輩に対しての 一つの貢献であると存じます。